その後、大正のはじめまで、ここ大野原は熊本営林局の管轄下におかれたまま、ほとんど住む人もいなかったのです。明治三十六年(当時の垂水は垂水村でしたから)垂水村会では、大野への移住を計画して調査を実施したのですが、経費の面からとうとう実現しなかったということです。わずかに、明治のおわりごろから大正のはじめにかけて、黒木太郎吉とその息子の二人が住んでいたようです。住居が、今の小学校上あたりで、狩猟・炭焼き・原始的な焼畑式農業で細々くらしをたてていたと伝えられています。 明治10年、鹿児島に帰っていた西郷隆盛がたち、西南戦争となりました。このため大野の養蚕業は廃滅したと伝えられています。