大正三年一月十二日、午前十時五分、桜島は大音響とともに爆発し、八000メートルに達する噴煙と大量のやけただれた溶岩をふき出したのです。赤水と桜島口のあたりには特に大量の溶岩が流出し、島島が埋没し、桜島が半島化するほどでした。このため桜島では一九O六戸、一万三二三九人にのぼる擢災者を出したと記録されています。垂水一帯は、北風に乗った大量の噴煙が絶えまなく続き、所によっては五0センチにも達する降灰や泥炭流のため、耕地をあきらめなければならない人が続出したということです。海潟や水之上方面から大野への入植者が多かったのは、このような理由からなのです。