明治十年、鹿児島は西南戦争のために騒然としていました。このため、大野の養蚕業も大困難となり、自分たちの土地に相当な税がかけられるのではないか、とおそれた人々は、大野をすてて逃げ出してしまったのだそうです。その行先は、垂水、高限、百引、東串良方面であったと、大野小学校沿革史は記述しています。結局、大野の養蚕業は、わずか数年で廃滅してしまったことになります。このころの人々も、茶を作っていたのではないか、と思われるのですが、その明確な証拠はみつかりませんでした。 明治5年4月、川辺村から約60戸が移住入植して養蚕業を営んでいました。写真は、そのころ植えられた桑の木です。