大正三年一月十二日、午前十時五分、桜島は大音響とともに爆発し、八000メートルに達する噴煙と大量のやけただれた溶岩をふき出したのです。赤水と桜島口のあたりには特に大量の溶岩が流出し、島島が埋没し、桜島が半島化するほどでした。このため桜島では一九O六戸、一万三二三九人にのぼる擢災者を出したと記録されています。垂水一帯は、北風に乗った大量の噴煙が絶えまなく続き、所によっては五0センチにも達する降灰や泥炭流のため、耕地をあきらめなければならない人が続出したということです。海潟や水之上方面から大野への入植者が多かったのは、このような理由からなのです。
大野中学校で開いた「古老に聞く会」で、開拓一世の室田清市さんは、次のような話を聞かせてくださいました。『わしがまだ十代のわかいころ、わたしは小高い丘の上で農作業をしていました。すぐ目前に見える桜島が大音響とともに、まず東の峰が爆発し、半時問、ぐらいあとから西の峰が爆発をおこしました。噴火はずっと続き、かみなりのような地鳴りが絶えまなく続いて、噴煙のためにあたりは夕方のようにうすぐらくなってしまいました。午後になると降灰はさらにひどくなり、垂水の市街地の人びとは津波をおそれて、次々と山手の方に避難して行きました。夕方六時ごろになって大地震の追いうちがあり、倒壊家屋さえ出たほどでした。ほとんどの避難民は夕食も寝具もなく、なんとかありあわせのもので、というありさまでありました。』やっとまにあわせる